日本の損害保険のはじまり
日本では明治時代に福沢諭吉がアメリカから保険を輸入したとされています。明治元年頃のことです。
1879年(明治12年)に東京海上(現・東京海上日動火災保険)が設立され、日本の損害保険ビジネスがスタートしました。発起人は渋沢栄一で、資本金の1/3は岩崎弥太郎が出資しました。社名に”海上”とつきますので、海上保険、つまり船で輸送をする際の「積荷」に対する損害保険を引き受けていました。その後、1891年(明治24年)設立の明治火災、1919年(大正8年)設立の三菱火災と合併、1898年(明治31年)設立の東京物品火災(その後の日動火災)と2004年に合併し現在の東京海上日動火災保険(株)になりました。
創業時の株主には、元徳島藩主蜂須賀茂韶以下華族団、岩崎弥太郎以下三菱関係者に加え、渋沢栄一・安田善次郎・大倉喜八郎などの一流財界人・華族など約200余名が名前をつらねていました。このように広範な株主構成をもつ企業であったため、いまでいうガバナンスの措置もしっかりと整っており、定款は取締役の権限と責任を明示するなど具体的で、分量的にも100条を超え、質量ともに充実していました。商法制定以前にこうした定款が作成されたことは画期的であり、その意味でも、わが国の本格的な株式会社の先駆け的な存在でした。
一方、現在の損保ジャパン日本興亜は、1887年(明治20年)に設立された東京火災にはじまり、1893年(明治26年)設立の帝国海上、1908年(明治41年)設立の第一機関と、3社合併により1994年に安田火災となり、1911年(明治44年)設立の日本傷害(後の日産火災)、1920年(大正9年)設立の大成火災と2002年に合併し損保ジャパンとなり、1892年(明治25年)設立の日本火災(後の日本興亜)と2014年に合併し損保ジャパン日本興亜となりました。
明治時代に損害保険会社は乱立し、30社にもなったようで、その後合併等を繰り返し、今に至るわけですが、現在でも毎年のように合併や外資系保険会社の乗入、撤退が続いています。国内の保険市場は成長が鈍化しているため日本の保険会社も外国の保険会社を買収するなどし、業績の維持向上を図っています。
保険は目に見える物的商品ではないので、製造業のように生産工場があるわけでもなく、システム統合と商品のリニューアルさえできればよいので、経営統合が頻繁にあるのかもしれません。銀行や証券会社も同じで、データと紙と人でできている業態ですね。
大航海時代の海上保険
14世紀、ローマに集まる人々や物品交易に関与していたイタリア商人が商取引の中で開発した一つが海上保険であったと言われています。世界最古の保険証券は14世紀のイタリアで見つかっているそうです。その後15世紀~17世紀にかけてのヨーロッパ人による大航海時代に海上保険は発達し、その頃ロンドンにあったロイズ・コーヒー・ハウスでは貿易商や船員向けに海運貿易に関するニュースを提供するサービスを行い繁盛、現在でも世界的な保険市場(保険会社ではない)として機能しています。
それ以前の損害保険
それ以前の損害保険の起源については諸説あるようです。紀元前300年頃のギリシャの地中海商人による冒険貸借は、船や積荷を担保に資金を借り、船や積荷が無事に到着しなかった場合には返済を免除され、貿易が無事に完了した場合には利息をつけて返済するという商取引があったようです。これは現在でいう銀行と保険のミックスのような考え方ですね。
また、紀元前2250年頃のバビロン時代にはキャラバン隊が盗賊に襲われたら、その損害を隊全体で負担するという保険に似た考え方があったようです。既にその頃から相互扶助の精神が制度として確立していたのですね。
(注)記載のある各保険については一般的な内容の説明です。